この漫画の様なイキモノになりたかった―『ヨコハマ買い出し紀行』

水玉螢之丞さんの『こんなもんいかがっすかぁ』を読み終えて、次に何を読もうか迷った私。
『げんしけん』を候補として考えていたけれど、"オタク・サブカル文化の日常" を味わいたい、の文脈で考えると、90年代後半~2000年代くらい迄の繋がりが欠落しちゃう感じがしたので、せっかくだから何か良いものはないかとAIに聞いてみました。

書いた日記自体を貼り付けた上で、「こういう文脈で、この期間を埋める様なエッセイ漫画の様なものはない?」と聞いたのですが、挙げてくれた漫画はフィクション寄りのもの…例えば『EDEN 〜It's an Endless World!〜』とか『BLAME!』とか、まぁ確かにその頃のサブカル感は多分に含んでいるんだけれど求めてるのはそーゆーのじゃないんだなぁ…!みたいな。(どちらも既読)
その中で挙げられている漫画に『ヨコハマ買い出し紀行』があって、これも既読なんだけど、でも結構長い期間読み返してなかったな…と、せっかくなので読み返しすることにしました。

『ヨコハマ買い出し紀行』は『芦奈野ひとし』さんという方の…ファンタジー寄りSF漫画、という感じでしょうか。
大きな事件が起きて、それが落ち着いて、緩やかに人類が衰退していく中で、狭い範囲での "日常生活" を描いたような、そんな漫画。

読み返す度に、この雰囲気、世界観、空気感の中に "すっ…" と入り込んでいく感覚がとても気持ち良いなぁ、と思います。

私は映像作品以外のものは、頭の中で、ぼんやりとした映像へ再構築して受け取っているなぁ、って感じることが多いんですね。頭の中で再構築された "映画" を見ている、そんな感じ。(そこまではっきりと映像化されているとは限りませんがっ…!シーンとして頭の中に映像が立ち上がることが主で、常に映像が頭の中に流れ続けている感覚ではないです)
小説の様な文章作品は勿論、漫画でもそれを感じます。映画に関してはそのまんま "映像" を見せられてる、その映像をそのまま受け取って処理しているようで、そういうことは起きないんですけれど。

その時、頭の中に立ち上がる映像を "観ている" と感じるケースと、"その空間にいる" と感じるケースがあるんですが、『ヨコハマ買い出し紀行』に関していうと、後者の "その空間にいる" と感じるパターンなんですよね。
ただちょっと面白いのが、この時に感じる "その空間にいる" という感覚。
これは身体性を伴って、私自身がその空間にいる、というよりは…なんでしょう、例えばドローンの様なもので、その空間を "観察している" ような感覚なんですよね。
もしくは透明人間になって、その場にいて、観ている。干渉はできない、ただ観ているだけ…言語化すると、それが近い感覚になるのかな。
私の感覚で似たものを挙げるとすれば、過去の思い出に浸っている時、思い出が呼び起こされた時の感覚に近い感じの漫画だなぁ、って感じています。音楽を聴いて思い浮かぶ "その曲を聴いていた時の情景" とかがすごく近いかも。

元々作者の芦奈野ひとしさんは、「風景を描きたくて漫画を描いている」という様なことをインタビューで語っていたそうなんですけれど、それが作用しているのかな…。
少なくとも私にとって、自然で気持ち良い客観視点で作品の中に入り込み読み進めることが出来る。その場に同席している、観察者としてそこにいられる、そんな感じの漫画です。

面白いなって思うのは、この "風景" の描き方。
緻密な書き込みであるとか、リアルであるとか、そうとは限らないということ。(シーンによっては凄く書き込みが細かいところはありますよ)
あくまで対比として挙げるのであって、それによってどうこう言いたいわけではない、とゆう前提で挙げますが、例えば『よつばと!』のリアル感、空気感って、緻密な書き込みによって醸し出されていると思うんですけれど、それとは違う、書き込まないことによる空気感という感じでしょうか…。
『ヨコハマ買い出し紀行』の、ふわっとしたファンタジー感、行き過ぎないSF感、そしてその映像の中への同席を許してもらえる様な優しさみたいなものは、作者さんが何を描き何を描かないかの取捨選択の上に成り立ってるんだろうな~なんて思ったりもしました。
『ヨコハマ買い出し紀行』自体が、"思い出の物語" だと感じるところもあり、先程述べた自身の "思い出を振り返っている" 時の感覚と重なるところがあるのも心地良く、とても私に馴染む、大好きな漫画の一つだな、と思います。
(どう "思い出の物語" なのかは解説しないので、興味を持たれた方は是非読んでみて下さいっ…!w)

今回の読み返しは、前回からだいぶ間が空いていたと思うんですよね。
多分5年以上10年以内、という感じだと思うのですけれど。
久々に読み返して、私は「この漫画の様なイキモノ」になりたいと思っていたことを思い出しました。

作中の "見て、歩き、よろこぶ物" というキーワードに代表されるような、そんな存在。
アルファさんの様に、自分で見た世界を大切にし、それを消費するのではなく消化できる存在。
人と同じ船に乗っていないことに思うことはあれど、それも自分の一部として受け入れられる存在。

思えば、そんな存在に対して憧れを覚えたのは10代半ばが最初でした。
インターネット黎明期を少し過ぎた頃。常時接続が当たり前になってはいたものの、ノイズの影響を受けて今ほど安定しない、メタル線のインターネットが日常だった頃。
その頃、よくネットでおしゃべりしたり、たまに会って遊ぶともだちに、前述の様な憧れを持っていたのでした。
年下の子だったんですけれど、いつも静かに微笑んでいるような子で、自分の内側に楽しさや幸せを、自然に見出している様に見える、そんな姿に憧れがあったんですよね。

その子を見ていて、楽しく生きる、幸せに生きる、ということを考えた時に、それを自給自足する必要があるな~って思ったのです。外部にそれを求めたら、その供給がなくなってしまった時に楽しくない、幸せじゃない、になっちゃいますし。
実際にその子がどういう思いで生きていたのかは分からないですけれど、その子の姿にそれを感じて、いつかそうなれたら良いなぁ…と考えていたのでした。

その後、この考えが元にあるのか、あるいは私自身の元来の性質もあるのだろうけれど、楽しそうなことを見つけては、やってみる様になった気がします。
文章を書いたり、絵を描いたり、3Dモデリングもそうですし、ああ楽器を触ってみたりもしましたね…その他、ゲームだったりパソコンいじりだったり、いろんなことをしてみたな~って思います。
そんな風に生きている中で『ヨコハマ買い出し紀行』に出会い、「あ、これは私の憧れる姿を、また別の形で描いている漫画だ」って思ったんですね。

ただ、それらは勿論 "やりたくてやっていて、かつ楽しい" ことではあったんですけれど、"そういう生き方をしたいから" やっている様に感じてしまう部分もあって。
他にも、例えば絵等その他創作物に関して言えば、本来自身の「楽しさ・幸せの自己供給や追求」の為のはずだったのに、人からの評価を意識してしまったり、そもそも私自身がその出来に納得出来ず、端的に言ってしまえば "それをすることが辛くなる" ことも増えていきました。
過去のそういう時に多分、『ヨコハマ買い出し紀行』を読み返していたんだろうな、って思います。

そして、1年2年その "楽しかったはずのこと" から離れてみたり、また取り組んでみたり…そういう風に何度も繰り返している内に、それぞれが私にとって自然な距離感になったのか、何かを意識することなく「やりたくてやっているだけ」という感覚のままに出来るようになっている。
今回読み返したことで、そんな風に思うことが出来ました。

いつの間にか、理想としていた生き方にだいぶ近づけている自分を自覚した…「そうだ、私、これに憧れていたんだ」という初志を思い出すと共に、自然にそれへと近づけた自分を見つけた。
だから意識しなくなった=忘れていたのかな、と思ったんですよね。

気づかないうちに少しずつ変わって、忘れて、そして今この地点に立っている。
"そのもの" になっているわけではないと思うけれど "それなりに"、私なりに立ちたい場所に立てている気がする。
また時間の流れの中で変わっていくのだろうけれど、その変化も含めて楽しく幸せな人生が送れると良いなぁ。

今日が終わって 日をまたぐとき

僕ら今また 新しくなる

通り過ぎてく 流されてゆく

追いつけないけど それもまたいい

Time to renew / パソコン音楽クラブ