ここまで3回に渡っての過去日記の4回目。
2015年末に起きた出来事から、当時書いた日記を手直ししたものの最終回になります。
知人を私の遊んでいる仮想世界に案内したことからの一連のお話は前回で終了しているのですが、そのお話の中で触れたUIに関して、その後オマケ的にいろいろ考えていた私がいたようです…。
「最高のUIって何なんだろ?」って考えてみたら、"頭で考えただけで動く何か" なのかなって思いました。
念じればご飯が炊ける!念じれば車が動く!!
これは楽、ちょーらくちん…!
更には、念じれば絵が描ける、念じれば音楽が鳴る。
イメージすれば、それが具現化する。
想像すれば訪れる幸せ、ジョン・レノンも吃驚です。
実際、それに近いものが求められているのかな、って思います。
思考の速度を阻害せず表現出来るツール。
パソコンやソフトウェアがどんどん高度になって、個人でも今までに比べて少ない学習コストで、専門家の様な表現が可能になりつつあるな~って思います。
更にはデジタルの中から飛び出して、現実に実体を持つ立体物。
それすら3Dプリンタで出力可能になっていて、プロダクトのモックなんかもう、驚くべき速さで出来上がっちゃう。
だから、行き着く先にあるものは "空想が現実に" な世界なのかも知れないなって。
そしてそれは、とても恐ろしいことの様に思えてならないんですよね。
基本的に人はみんな、衣食住が足りていれば、自己主張、自己表現をしたいイキモノだ、って私は思っています。
自分を何等かの形で表に出したい、我の塊がニンゲンだと思うんですよね。
それは人とのコミュニケーションによってかも知れないし、創作活動だったりするのかもしれません。
とにかく何らかの形で自分を表現したい、自分の存在を世界に確立したい、って想いがあるんじゃないかなぁって。
だからきっと空想を現実にしてくれる様なツールが出たら、こぞってみんな使ってみると思うんですよね。
思い描けば絵が描けるツールがあったら、とりあえず試してみると思います。
とは言え、頭の中で思い描くって、結構な訓練が必要なことだとも思うんですよね。
大体において、曖昧で混沌としていませんか?頭の中って。
実際に創作活動をする時…文章や絵、音楽、いろいろな表現の手段はありますけれど、その曖昧なものを少しずつ表に出して、少しずつ輪郭を描いて、それで最終的な出力として固めていくことが多いと思うんですよ。
頭の中には最高の "雰囲気" があって、それを実際に形にしていくような。
だから、誰でも簡単にイメージを具現化出来る、そうなったとしても、そもそもイメージを思い描く力がなければ、出てくるものは雰囲気だけ、とても恐ろしいものになってしまう、そんな気がします。
まず1つ思いつくこととしては、クオリティの低いものが世の中に溢れる、というもの。
それに埋もれて、価値あるもの、良いものが見つからない、そんな世界になってしまう恐ろしさ。
近年の動向を見ていて、個人的にはUGC系の動画サービスにその危うさを感じていたりするんですよね。
ただ、他の様々なジャンルのコンテンツに関しても "手軽に作れる" ようになることで、そういう風になっていくような気がします。
もちろん、そういう玉石混交の中から、すごく面白いものや新しい文化が生まれると思いはするんですが。
また、別の観点で。
今まであった創作への敷居の高さによって見えづらかった "名状しがたい何か" が具現化しそうなのも、怖いなって思います。
「ニンゲンは、衣食住が足りていれば自己主張、自己表現したいイキモノだと思っている」ということを先程書きましたけれど。
この自己表現や自己主張、"我" の部分は、意識的に制御しているからこそ "良いモノ" になると思っているのもあります。
もちろん敢えて制御せずに取り出す、ぶつける、という表現もあると思いますけれど、それは他人も自分も抉る、諸刃の刃のようなものだったりするんじゃないかなって…。
何にしろ、ある程度の訓練や習熟が必要なことなんじゃないかなぁ、って思うんですよね。
例えば自己主張の仕方に関しても、幼稚園、小学校、中学校…って段階を経て学んでいくじゃないですか。
コミュニティの中での自分の位置取り、他者との関係性を学んで、自己主張していく。
それがないまま行われる自己主張って、誰かを傷つけたり、自分を孤立させたり、良い結果を産まないと思うんですよね。
そんな感じ。
だから、何の考えもなしに気楽に触れたイメージ具現化ツールから、何かとんでもない狂気が生まれそうだなって。
それは必ずしも "狂気の作品" ということだけではなくて、作り出すニンゲンの "我" が "凶器" となるかもしれませんしね…。
そして、意図せず他人や自分をがっつり抉っちゃう…。
そうなったら怖いな、ってぼんやり考えたりします。
なので、そういう類のツールへアクセスする為には、何かしらのフィルターがあって良いのかな…。
例えば、今現在でも "そのツールに対する習熟度" がある種のフィルターになっていると思うんですよね。
誰でもPhotoshopやAfterEffect、Blenderを使いこなせるわけじゃないですし、油絵や水彩画、ギターやピアノ、一眼レフやDVカメラ、全部そう。
イメージを具現化する道具達は、どれもその使い方を学ばないと、それに対する経験値・習熟度をあげないと、自分のイメージの具現化すらもままなりません。
私は、この "ままならなさ" がすごく大事な気がするんですよね。
難しいツールは難しいツールのまま、それをモノに出来た人だけが使えれば良いんじゃないかなって…。
って書き方をすると、ちょっと選民意識があるような…「特別なニンゲンしか創作活動をしちゃいけないのか!」みたいに見えたりもするかもしれないんですが。
そういうお話じゃなくて、「何か作って遊ぶ!」っていう熱意のお話。
"難しいツールを習得できる特別なニンゲン" が何かを作ることができるんじゃなくて、難しいツールを習得する熱意を持って作ろう、ということ。
そうやってツールを習得したら、もっと上手に作りたくなると思うんです。
簡単に作れてしまうのなら、そこで止まってしまうと思うんですよね。
それに、ネットが一般に浸透して、気軽に作ったものを公に出来る現状もあります。
簡単にアクセスできるイメージ具現化ツール、それを使って悪ふざけで作られたものが気軽に公開されて、誰かを傷つけたりすることがあるかもしれません。
逆に、他者からの "何か" を受け入れる覚悟を持たないままに作ったもので、自分が傷つくことがあるかもしれません。
また、労せず作れたものによって得られた評価から、狂気となるまで我が肥大化してしまうこともあるかもしません。
だから、本当に「作って遊びたい!」って熱意を持った人が作れる方が良いな、って思ったんですよね。
それはきっと悪ふざけではないはずだし、自信や不安を持って公開されたそれに対する覚悟も持てるはず。
そして渾身の熱意で作られたものは、等身大の我、その評価は等身大で受け止められると思うんですよね。
ツールへの習熟過程、それが我の制御だったり、他者への配慮だったり…そういうものを育てるフィルターになるんじゃないかって、私はそう思うんです。
まぁ、この "熱意" があればこそ…という考え方。
私の理想論だったり願望でしかないなって思いもするんですけれどね…。
きっと今後、様々なツールはどんどん "簡単なイメージ具現化ツール" に近づいていって、それに合わせて "ただ作られただけ" のものも、今よりずっと増えるんだろうなって思います。
それによって "作る" ということの入り口が広がるのは良いことだとは思いますけれど、その先にあるものまで軽くなってしまったり、いろんな意味での "狂気" が広がらないと良いな…と切に願います。
どんなツールを使っても、"作る" ということに、ちゃんと手応えのある形で向き合い、そうやって生まれたものが評価される世界であって欲しいな、と思います。